心と体が軽くなる 多次元キネシオロジーヒーリング&オステオパシー横浜・東京

多次元キネシオロジーの事。ヒーリングの事。スピリチュアルな事を書いていきます。国内認定オステオパスです。

私と父の事(シータヒーリングと多次元キネシオロジー)

今日(11月3日)は、誕生日でした。

誕生日は、両親に感謝する日でもあると思い、実家に帰りました。

 

両親とも元気そうで、短いけれど楽しい時間を過ごし、帰宅。

 

私は、父の事が小学生の頃から嫌いでした。

中学生の時には、とあるキッカケから、全く話さなくなり、私が27歳?28歳になるまで目も合わせたくない、憎い、と思っていました。

 

今は、憎しみも、嫌いという感情も一切ありません。

元気でいて欲しいし、笑ってて欲しい。

 

私が変化した最初のキッカケは、シータヒーリングでした。

 

遡ること震災の年。

数ヶ月以上、私はずっと耳鳴りが止まず、原因が分かりませんでした。

(今なら分かるけどね)

 

知人に相談したら、「凄いヒーラーさんがいて、色々な原因がわかるかもよ!」と。

 

そのヒーラーさん、ホームページはなく完全なる口コミと紹介のみのサロンでした。

 

2011年3月11日の14時から。

人生で初めてヒーラーさんに人生を見てもらう約束をして。

当日、出会いがしらに「あなたはヒーリングをやる人になる」と言われました。

その直後に地震が起き、「え、何、なんなのこれ」

色々な驚きで、茫然としていたんです。

他に何言われたか覚えてないくらい)

 

その年か翌年、ヒーリングとは無縁、スピリチュアルとも無縁の私はタッチフォーヘルス・キネシオロジーを学びました。

(そう、最初にヒーリングとして学んだのが、キネシオロジーです。)

 

そこで一緒に学んだ生徒さんがシータヒーリングを教えていると知り、受講する事に。

その先生は家族全員がサイキックという凄い人で、、、と、話が逸れそうなので、割愛。

 

デモセッションに私が選ばれた時、父との関係をテーマに行いました。

この関係がヒーリングで変わるものなら、と。

この憎しみに終わりがあるのか、と。

 

シータについては、また追々書ければ。

父との関係についてワークした半年後。

父が大腸ガン(ステージ3)だと判明しました。

手術が成功する可能性は50%以下。

成功しても、5年生存率50%。

 

あと30日で、二度と会えなくなるかもしれない。

親孝行どころか、娘に恨まれたまま死ぬかもしれないのだ。

そして父自身「もう、生きてても楽しくない」そう思っている事がわかった。

 

あぁ。

生きてて楽しくない原因を作ったのは私かもしれない。

ずっと避けてたけれど、私が変わらなければいけない瞬間が来た。

だから、中学1年生ぶりに、自分から話しかけ、初めて家族で外食をした。

涙が止まらなくて、自分の中の何かが流れた。

 

父の手術は成功し、現在も元気に仕事をしている。

 

私は、少しずつ少しずつ、今まで話した事がなかった身内と目を合わせ、話しをするようになった。

この変化は、シータヒーリングのあの時のセッションがあったからだと思う。

自分の意識が強制的に変化する事を促される最速の方法を、宇宙は選んだのだと思った。

 

なぜ今日これを書いたか。

話せるようになったし、親孝行も積極的にしていたけれど、去年までは父への罪悪感と、何を話せば良いのかという思いがまだ残っていた自分もいたのだ。

 

自己調整で、グレイ遺伝、レプティリアン遺伝、そしてインナーチャイルドをやったのが11月1日。

会いに行ったら、父を見ても罪悪感が全く湧かない。

くだらないギャグを良い、ラグビーの話をして、今まで父が勤めていた色々な職業の話も、習い事の話も初めて聞いて。

ああ、父なりにずっと頑張ってくれてたんだ。

旦那も含め4人で爆笑しながら団欒をした。

実家に帰って一番楽しい時間を過ごせたのだ。

 

実家を出て駅まで歩いている間。

私は冷静に驚いていた。

私、父親と友人のように話してた。

目を合わせても何もないし、笑顔を返し、ただただ楽しい時間を過ごせた。

中学生の私が見たら驚くと思う。

 

ヒーリングは、時に病気や痛い思いを通して変化を求めてくる時もある。

でも、自分が変われば様々な世界が彩るのだと気づいた時、どんな出来事も素晴らしい体験だと思えてくる。

 

2011年に「ヒーリングをする」と言われてから今。

ようやく、スタートラインに立っています。

 

これから多次元キネシオロジーを学ぶ人がいるなら、私は心から応援したいです。

自分の中にあるモノクロの世界に、きっと色がつくから。